晴れた日曜日に

 

 

 

 両腕を空に向かってあげて思い切り身体を伸ばす。サングラスを額に押し上げ、鬱陶しいマスクを右手で掴んで剥がすと、深々と息を吸いこんでから惜しむように吐いた。潮の香りが心地よく鼻孔をくすぐる。目の前に広がる海は、エメラルドグリーンの海水に日光と澄んだ空の青色を溶かし込んで、普段よりも透明度を増しているようだ。ウィンドサーフィンのレモン色の帆が音も無く視界を横切り、少し先まで滑ると波の間にぱったりと伏せた。ああ、いつも通りの海の光景だ。長い外出自粛生活のせいで縮こまっていた肺胞の一つ一つが、真水に浸した綿のように一気に膨らんでいく。

 

 あれから、2か月が過ぎようとしていた。政府による緊急事態宣言が発令されると、私の生活は一変した。強権を行使してウィルス制圧した隣国とは異なり、私達日本国民は「ステイホーム」の号令と共に、不要不急の外出や活動の「自粛」を強いられるようになった。在宅ワークが推奨され、一斉休校で学校から子供達の姿が消え、観光地や繁華街、劇場、飲食店、あらゆる場所から人がいなくなった。日本人特有の生真面目さと従順さで自粛は概ね上手くいったかのように見えた。けれど、今日のような良く晴れた日曜日には、この町の海岸に自粛疲れした人々がこぞってやってくるようになった。海岸沿いの国道は渋滞し、封鎖された駐車場の代わりに近隣コンビニ、ドラッグストアが観光客の車で溢れ、路上駐車が増えた。地元住民は不安を募らせ、怒った。他県ナンバーの車のフロントガラスやナンバープレートに落書きをするなどの暴挙で反撃する者も現れた。やがて日本中が「自粛警官」と化した人たちで溢れ、テレビやインターネットで非難や叱責、怒号が飛び交った。誰もが誰かを非難し、互いに傷つけあっている。もう、いい。うんざりだ――。出口の見えない日々の中で、毎朝ニュースを見る度に失望し、嘆き、悲しみ、そして私はテレビとインターネットを見ることを止めた。

 

 

 「仕方ないでしょ、みんな、ずっと閉じこめられているんだから」

 私はため息と一緒に投げやりに吐き出した。この町の住民の一人として、不安はある。こうして東京や他県からやってくる人達の中には感染者が含まれていないとも限らないし、徒歩圏に大きなスーパーも無いこのあたりでは、コンビニやドラッグストアは高齢住民にとって欠かせない生活インフラだ。トイレと駐車場利用のために店に立ち寄る若者にウィルスを撒き散らされたらたまったもんじゃない。けれど、わざわざ遠くから来て海辺で息抜きをしたい人々の気持ちも私には理解できた。都会の殺伐とした小さなアパートの部屋に、毎日誰にも会わずに閉じ込められる。そう想像するだけで、「ありえない」と身震いする。私だったら精神を病んでしまうか違う病気になるか、孤独死するほうが先かもしれない。実際、今では週に1、2回の海岸までのジョギングが毎日の欠かせないルーチンになっていた。

 

 みんな、巣穴に閉じ込められた働き蟻だ。都会の巨大な蟻の巣から蒸し出された老若男女は、よく晴れた安息日になると「自粛」の二文字を記憶から抹消し、オアシスを目指して集うようプロミングされていた――。それでいいじゃない。それが人間を人間たらしめる根源的な欲求である以上、誰が咎めることができるだろうか? 

私はスニーカーのつま先に触れた小さな巻貝を拾い上げて、海をめがけて思い切り投げた。子供たちのはしゃぎ声が波の音の合間に愛おしく響く。皆が思い思いに、裸足で歩き、桜貝を探し、砂浜に寝そべったり、浮き輪をして泳いでいる者もいる。こうしていると、あの忌まわしいウィルス騒動など無かったかのように、ただ平穏な光景だけが連綿と広がっていた。 

 

 「さあ、気が済んだ、帰ろう!」

 砂浜から国道に上がって横断歩道を渡り、住宅街を抜け、元来たバス通りの歩道を走りだした。海を見て気分が良くなったせいか身体も軽いが、どうにもこのマスクが息苦しい。上下ジャージにランニングシューズ、マスクとサングラス、日よけのキャップという出で立ちは、すっかり私の定番となった。ちょっと冴えない姿だけれど、どうせマスクとサングラスで顔がすっぽり隠れるし、もはやどこから見ても私だとは分からないだろう。いちいち化粧をしなくて良いのも楽でいい。つらつらと取るに足らないことを思いめぐらせながら走っていた、その時のことだった。

 

 「すみません!ちょっと!」

 文学通りバス停の前を過ぎたところで、誰かが叫んだ。振り返ると、今しがたすれちがったばかりの、年の頃30歳前後の女が一人、立っていた。私が立ち止まり向き直ると、女はツカツカと歩みよって来る。化粧っ気のないおかっぱ頭、疑い深そうな二つの小さな目でこちらを睨みつけている。ベージュのトレーナーに花柄のロングスカートを履いたその女は、躊躇なくソーシャルディスタンスを破り、私の身体に触れる手前までずいと近寄った。蒼白い顔は緊張でこわばり、マスクを着けていない。私は思わずのけぞり、大きく一歩、後ろに下がった。

 

「あの。誰かに、服装を指定されて、ここを走れと言われましたか?」

おかっぱ女の言葉を理解できず、私は尋ねた。

「え、何? 誰かって誰?」

「だから、誰かに、その服にサングラスとマスクで、この辺りを走れと頼まれましたか? それで、ここを走っていたんですか?」

 おかっぱ女は目をぱちぱちさせながら、震える声でロボットのようにぎこちなく繰り返す。

「…えっと、何?どういう意味?」

 困惑しながら答えると、おかっぱ女は青い唇を震わせながら真剣な面持ちで続けた。

「集団ストーカーって言うんです!あなたも誰かに頼まれて、やっているのでしょう? 皆で私を付け回して、何が目的なの!」

 ああ、この子は――。私は努めて冷静な口調で尋ねた。

「あなた、大丈夫?何か心配ごとでもあるの?もしかして――」

「ああ、もう!とにかく、もうやめてください!」

 

 女は肩を震わせて叫ぶと、くるりと踵を返して勢いよく立ち去った。呆気にとられて後ろ姿を見守ると、女はたった今通り過ぎたアパートの路面の部屋の前でおもむろに立ちどまった。そして、乱暴にカギを突っ込んでドアを開けると、バタンという大きな音と共に吸い込まれて消えた。

 

 私は閉ざされたドアを見つめた。静かに通り過ぎる車のタイヤの音の向こうで、救急車のサイレンがヒステリックにこだましている。毎日暗く狭い部屋に閉じこもり、誰にも会わず、誰とも話さず、感染者数を告げるニュースを一人で聞きながら、妄想に怯えるおかっぱ女の姿が目に浮かんだ。

 

「まあ、この恰好では怪しまれても仕方ないか」

 私は出がけに玄関の姿見で確認した自身の姿を思い出し、ジャージの太腿あたりの布を軽く摘まんで、苦々しく笑った。そして、大きな黒いサングラスと布マスクを外すと、ウエストバッグに押し込んだ。顔を上げると、見慣れた風景と日差しが無防備な両目に飛び込んだ。不意に、視界が歪んだ気がした。私は、長い冬眠の最中にひっくり返して起こされた亀のように、茫然と佇んだ。青々と茂る山、樹木の呼気を孕んだ空気が両頬をしっとりと包みこんでいる。季節は、知らぬ間に、初夏を迎えていた――。

 バスのクラクションが一つ、背後で柔らかく弾んだ。家族が待っている。私は走り出した。

 

 

 

 

 

 

 家に戻ると夫が玄関で出迎えた。

「由美子、どこに行っていたんだ、心配したよ」

 大げさね、ジョギングしてただけじゃない。そう答えながら見覚えのない茶色い革靴に気づいた。

「あら、お客様がいらしてるの?」

 夫が遮った。

「最近、海岸通り付近で車への落書きや脅迫文が届く被害が起きているそうだ。何か心当たりはありませんか?と刑事さんが尋ねてきたよ」

「まあ。それは物騒ね…」

 私は洗面所で入念に手を洗い、消毒してからリビングへ向かった。

 

「こんにちは、ご苦労様です」

 刑事の男が、ああ、どうもと言ってソファに座ったまま会釈した。コーヒーテーブルの上に4、5枚の写真が散らばっている。男がマスクをしていないのが気になった。

「あの、失礼ですが、マスクはお持ちじゃないのですか?今、こういう時期ですし」

 男は目を見開いた。

「こういう時期とおっしゃいますと?」

「ですから、ウィルスが。今、非常事態宣言中ですよね?感染拡大を防ぐために外出自粛、マスク着用を徹底して生活しないと。私もジョギングぐらいはしますけれど、どこにも出かけない生活を守っていますよ」

 

 男が夫と顔を見合わせた。夫が言った。

「由美子、何度も聞いたけれど、非常事態宣言って何のこと?ウィルスって、一体――」

「また、あなたまで!だから『SABBAT-19』だって言ってるじゃない!」

 私はつい大声になった。男が尋ねた。

「奥さん、その『サバト・ナインティーン』について、少し教えてもらえますか?」

「刑事さん、本当にご存じないんですか?今、世界中で流行っているサバト・ウィルスですよ?感染すると幻覚症状や異常行動、重症化するとほぼ100%死亡するんですって。刑事さん、濃厚接触と飛沫で感染するから、人と会うときにはマスクとサングラスを必ずしないと。手洗い消毒もこまめに――」

「わかった、由美子、もういいよ。わかったから。--ちょっとコーヒーを淹れてきてくれないか?」

 再び夫が遮った。私はムッとしながら部屋を後にした。そして、廊下で二人の様子をそっと窺った。

 

「ずっとあの調子なんです」

「ご主人も大変ですね…。まあ、車への落書きの件では、ご覧のとおり奥様が写真に写っていますし目撃情報もあります。被害届が出ている以上、一度署までお越し願えますでしょうか?奥さんの様子を見て、体調の良い時にでも――」

 

 憐みを帯びた男の声が低く響く。すりガラスのドアの向こうに、うなだれる夫の姿が見えた。

 

 

※SABBAT(サバト):ユダヤ教・キリスト教の安息日。魔女集会を指すこともある。

 

 

晴れた日曜日に /茉莉花 文・写真 (2020年6月執筆)

 

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